つねにフロンティアへ:アフリカに進出する福建客家
中国東南部、福建省の山奥には土楼という巨大な集合住宅が林立している【写真1】。この地域一帯は主に客家と呼ばれる人々が暮らしており、円形、方形、大小さまざまな形の土楼が確認できる。福建土楼は2008年に世界文化遺産登録されたり、中学校の英語教科書(→参考資料)などにもとりあげられたりするなどして、日本でもひろく知られることとなった。どこかで一度目にしたり、耳にしたりすることがある読者もいるかもしれない。

写真1 福建省永定県初渓の新華楼の外観(2015年2月 筆者撮影)
わたしはもともとこの土楼を調査・研究しようとしていたため、この地で調査をはじめた当初は華僑華人研究とは無縁だと考えていた。ところが、土楼でしばらく暮らしてみると、彼らの多くが海外に親戚をもっていたり、また海外から親戚が訪ねてきたりするという状況に遭遇した。たとえば、ある土楼の中心部には「この土楼からどれだけ海外に羽ばたいていったか」が図示されていたりするし【写真2】、またある土楼では墓参りの時に海外(インドネシア)から華僑が戻ってきたりする【写真3】。このように華僑華人研究とは無縁ではいられないのが客家研究なのであると、当時まざまざと感じたものである。ただわたしの場合、華僑華人が暮らす海外(中国の外)からの視点で研究するのではなく、あくまでも華僑華人の故郷である「僑郷」からの視点で華僑華人社会をとらえていた。このことは『僑郷』において記述しているので、もしよければそちらを参照していただきたい。かつての渡航者が風水実践、墓参、寄付などを通して、いわゆる「華僑」として創られていくプロセスが描かれている(→参考文献)。

写真2 香衍楼の中心部に貼られたマップ(2009年10月筆者撮影)

写真3 インドネシア華僑とともに行われた墓参(2010年7月筆者撮影)
というわけで、わたしは華僑華人社会/研究はあくまでも、かつての歴史、すなわち20世紀的で東南アジアを中心としたもの、という漠然としたイメージをもっていた。
ところが…である。
近年になって、わたしが調査している土楼一帯の人びとが、突如として華僑華人となる状況に直面することとなった。それは、「ちょっとそこのコンビニ行ってくる」とでも言わんばかりの軽い感じで、「ちょっとアフリカ行ってくる」というように、日常の延長のようなフラッとした感覚で渡航がはじまったのであった(少なくともわたしにはそう感じた)。因みにその発言をした彼は、スワヒリ語やフランス語はおろか英語を話すこともできない!これは冗談でもなんでもなく、本当に「ハロー」や「サンキュー」程度しか英語が話せないのである。
彼がアフリカに渡航した理由はいくつかあるが、土楼に居続けることの閉塞感があったのかもしれない。多少生活に不満があるところもあったのかもしれないが、生業も比較的安定していたし、結婚もしていた。ただこのまま土楼一帯で暮らすことに飽いていたのかもしれない。彼の言葉を借りれば「ここ(土楼一帯の村々)にいたってしょうがないじゃないか」というものであった。彼は若いころから職を転々としており、都市部でさまざまな仕事を経験し、土楼一帯に戻ってきた。そして村里から離れ山の頂上付近で羊、山羊、犬、鶏などを飼育し生計をたてていたのである【写真4】。彼が提供する山羊の乳は村人たちにとても好評だったのだが、彼は一切の家畜を売り払いアフリカに行く決心をした。

写真4飼育していた食肉用の犬への給餌(この地域の客家は犬肉を食べる)(2016年11月筆者撮影)
彼は何の伝手もなくアフリカ(ガーナ)へ渡ったのではない。既に弟がガーナで生活しているという「基盤」があった。しかしガーナに渡って以降、彼は弟と生活を共にすることは一度もなく、別々の生業、住居で暮らしていくことになる。弟はガーナ北部のクマシで生活しているが、彼自身は首都のアクラから離れることはなかった。彼がアフリカでまず始めた「商売」は、同じ中国華僑と現地で知りあってはじめた靴の販売である。そして約1年後に「独立」して、中国から古着を輸入し路上で販売するというビジネスを始めた。仕事が果たしてうまくいっているかというと、なかなか順風満帆ではないものの、常に何か新しいことに挑戦しているという意味では非常に充実しているようであった。
彼はオンラインで中国の古着を品定めし、広州の市場で信頼のおける友人(同級生)に品物の品質を確認してもらう。そして、広州からガーナ(の港町テマ)まで船便で送ってもらうのである。届いた古着は大量になるため彼の自宅へ置いておくことはできない。そのため倉庫を借りて一時的にそこに保管する【写真5】。大量の古着はある程度ジャンル分けされているものの雑多にまとめられているため、改めて整理しなおし、現地の協力者を雇って路上で販売する。この現地の協力者というのがなかなかにクセモノで、騙されたり逃げられたりすることも多く、契約や中国的慣習が必ずしもうまくいかないと彼は漏らしていた。また輸入業を行っているため、為替レートには非常に敏感で、毎日のように細かなレートの変動や政治ニュースをチェックしていた。その様子は生き生きはしているものの、福建の山奥での暮らしよりも少しストレスフルであるようにも思われた。

写真5 輸入した服が積み上げられた倉庫のなかで昼寝する現地協力者(2023年3月筆者撮影)
さて、ここまで読んでいただいたところで、おそらく読者の中にこんな疑問を抱いた人がいよう。すなわち「彼はいったいどのように現地の人とコミュニケーションしているのだろうか」ということである。この言語の問題、貿易の問題、そして生活を成り立たせるための多くの問題を解決してくれているのが、スマホである。というのも驚くなかれ、彼が福建の山奥で牧畜をしている時も、牧畜に関するすべての知識はスマホから得ていたのである。犬や羊の飼育方法、つまり給餌、治療、出産など、彼はそれをオンライン空間を利用して「独学」していた。彼には先生も先輩もおらず、ただスマホ内の牧畜コミュニティに疑問を投げ、諸問題を「解決」していたのであった。そしてアフリカに渡って以降もスマホは、言語翻訳のみならず、情報収集、貿易など多方面にわたって活躍している。
わたしは2回ほど(計1か月ほど)ガーナに滞在したが、そこで感じた華僑らしさ、福建客家らしさは、なんといってもお茶の慣習である。福建に住んだことがある人であれば、誰もが経験したことがあろうが、福建客家は1日に何度もお茶を飲む。本当に冗談抜きで朝から晩までお茶を飲んでいる。ガーナで暮らす彼も、その慣習をまったく変えることをせず、タオバオ(中国のECサイト)で購入した茶器セットに、中国から取り寄せた茶葉を入れ、日に5度も6度も茶卓に湯気をたてていた。
このようにスマホさえあればどんな問題も起こらなそうなものだが、人と人との信頼関係に関しては一筋縄ではいかない。実際、彼も何度か現地の協力者との交渉で痛い目を見ているようであった。そのためたとえスマホを介してやり取りをするとしても、ビジネスの現場においては、彼は対面で取引相手と会い、スマホを用いて交渉する。そしてやおら福建仕込みのお茶を提供する。が、しかしガーナの人はそこまでお茶に関心がなく、断られることも少なくない。わたしが相席した現場では、(相手が断ったため)彼とわたしの前にのみお茶が出されることとなった【写真6】。ガーナで福建スタイルを浸透させるのはなかなかに難しそうである。

写真6 アフリカにおいても福建スタイルは貫かれ茶が供される(2023年3月筆者撮影)
彼は現在、アフリカで生活しているが決してアフリカに固執しているわけではない。オーストラリアに行くことを考えていたり、「もしいい仕事があれば日本に行くから声をかけてくれよ」とわたしに嘯いてみたりする。このように現代華僑はスマホという便利なツールを片手にどこへでも飛び出していく。そんな彼を見ていると現代華僑は「落葉帰根」でも「落地生根」でもなく、「網路扎根」なのではないか、と考えてしまう。いずれにせよ、アフリカは現代華僑にとってフロンティアのひとつである。ただ彼の視点にたてば、そこに留まり続けることは本意ではない。彼(彼ら)にとってみれば、変動する世界経済の中で、常にフロンティアを漂い続けているだけなのである。
参考資料
三省堂『NEW CROWN English Series 3』平成24年2月20日発行(平成23年2月4日検定済)
東京書籍『NEW HORIZON English Course 2』平成28年2月10日発行(平成27年3月一一日検定済)
小林宏至 2016「僑郷からの災因論:二一世紀における「古典的」な風水事例より」川口幸大・稲澤努編『僑郷: 華僑のふるさとをめぐる表象と実像』行路社