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タヒチ島の関帝廟

 タヒチ島は、フランス領ポリネシアに属す南太平洋の島である。日本では、黒真珠の産地や、南国の楽園としても知られる。その一方で、タヒチと聞いて、中国系移民を思い浮かべる人はそう多くないはずだ。ところが、意外にもタヒチは、オセアニアの島嶼部のなかでも古参の中国系移民(華人)が多く住む地の1つである。タヒチの中心街を歩くと、華人経営の店舗が並び、華人団体の建物がところどころで見られる。春節(旧正月)になれば、さながらチャイナタウンのごとく、中国風の飾り物が街にあふれ、獅子舞が舞われる。

 タヒチにおける華人の歴史は古い。早くは1860年代に綿花などを栽培するプランテーション労働者としてタヒチに来た。いま華人を名乗る人々の祖先は、20世紀前半に商売などの目的で渡航している。1911年には華人団体の総本山である信義堂(Si Ni Tong)が正式に発足し、現在はその傘下に10の団体が属している。タヒチの華人は、2つの重要な共有財産をもっている。1つは、首都パペーテの郊外にある巨大な華人墓地。そしてもう1つが、彼らの精神的支柱でもある関帝廟である。

写真1 関帝廟。左は、入口から関帝廟までの道。(2023年11月、筆者撮影)

 タヒチの関帝廟は広大な敷地のなかにある。その敷地の規模は、南半球の関帝廟のなかでは最大級だろう。【写真1】にみるように、入り口の大門をくぐると両側に干支の石像を並べた小道があり、しばらく歩くと右側に寺院の建物がある。それが関帝廟である。関帝廟の前には関帝の石像がそびえ立つ【写真2】。

写真2 関帝廟とその前に座す関帝像(2023年11月、筆者撮影)

 関帝廟は1870年代に建てられたといわれ、それ以降、華人の信仰を集めてきた。タヒチの華人は1960年代に入ると次々とフランス国籍を取得し、フランス語を母語とし、キリスト教に改宗していったが、それでも関帝廟の香が途絶えることはなかった。それどころか、1981年5月に関帝廟が火災で焼失した後、それを再建しようとする動きが華人の間で生じた。関帝廟はまもなく再建され、1987年5月に盛大な落成式を催した。

今でも関帝廟は、タヒチの華人が祝祭を催す場所として機能している。その最たる時期が、春節であろう。タヒチの華人社会では、春節期間中に3つのイベントが催される。旧暦1月1日の春節祭、旧暦1月15日の元宵祭(ランタン・フェスティバル)、とその間の週末に催す文化の日である。この3つのイベントでは、いずれも関帝廟が重要な役割を担う。

元宵祭のイベントをみていくことにしよう。この日の活動は夕刻より始まる。まずはパペーテ中心部の市庁舎からパレードがはじまり、関帝廟に向かう。パレードの列には、獅子舞のほか、その年の干支の像を載せた神輿もある。太鼓やシンバルなどを鳴らしながら、関帝廟まで練り歩く。関帝廟に到着したら、その年の干支を関帝像の近くに下ろす。関帝像の手前には、イベント会場がある。会場には、ミニ・スタジアムのごとく、常時固定された観客席があり、屋根に覆われている。観客は、自由に出入りでき、タヒチの華人だけに閉じられていない。ポリネシア系や白人系の住民、観光客もおり、民族共生の空間として開かれている。

写真3 関帝廟のイベント会場における元宵祭の中国式の舞踊(2017年2月、筆者撮影)

写真4 関帝廟のイベント会場におけるポリネシア式の舞踊(2017年2月、筆者撮影)

 イベントは、爆竹と獅子舞から始まり、踊りと歌唱を中心とする数々の演目が華人団体などにより催される。舞踊は、中国風の衣装や傘を使った中国的なもの【写真3】から、ポリネシア風の衣装に身を纏ったポリネシアン・ダンス(ただしバック音楽は中国語)まで多彩である【写真4】。タヒチの華人のマジョリティは広東省出身の客家であるが、彼らのルーツとはおよそ結びつかない演目、たとえば雲南少数民族の楽器・葫芦丝(フールースー)の演奏などもある。音楽は中国語と広東語のそれが主体で、古典音楽から流行歌まで幅広い。

 タヒチの華人の間では関帝廟はもはや単なる信仰の対象ではない。祝祭日などに集まる結節点であると同時に、彼らの「中国」イメージを表出する場であり、また民族の垣根を越えた共存と融和が表現される場でもある。関帝廟はまさにタヒチ華人社会の縮図といえるのかもしれない。