神戸の台湾人:コミュニティに生き、歴史を記録する(1)
神戸には多くの台湾人が暮らしている。台湾が日本の統治下にあった時代、神戸港から台湾北部の港町・基隆までの航路が開かれたことにより、1910年代より神戸には多くの台湾人が降り立ち、商売を営むことになったという。その先駆けは、台湾北西部に位置する苑裡、大甲、清水を出自とした台湾帽子商人たちである。苑裡は清代より藺草(いぐさ)の産地として知られ、畳やパナマ帽の原料が神戸港に送られていた。神戸には1958年に発足した「留日清水同郷会」があり、現在でも活動を続けている。構成員の多くは三世や四世になったと聞くが、かれらの先代にあたる来日一世の多くは帽子商人でもあった。
もう一つ、神戸の台湾人社会を語る上で欠かせない重要な生業がある。それが真珠の加工・輸出業【写真1】である。

【写真1 真珠を加工する際に用いるトレー(筆者撮影)】
神戸の台湾人真珠商の多くは台南出身で、「台南幇」と呼ばれてきた。神戸は「パールシティ」とも称され、北野町には真珠業者が集まる「パールストリート」と呼ばれる通りがある。かつてはこの一帯に多くの台湾真珠商の事務所が軒を連ねていた。聞くところによれば、半世紀ほど前には仕事を終えた台湾人たちが、台湾真珠商の同業組合「真珠クラブ」の事務所に集まり、夜遅くまで麻雀に興じていたという。真珠クラブにほど近い一宮神社の玉垣には、当時の台湾人真珠商たちの名や屋号が今も刻まれている【写真2】。

【写真2 一宮神社(筆者撮影)】
そんな神戸の台湾真珠商人を代表するのが台南出身の鄭旺である。鄭旺は戦前より日本で暮らしていた。かつての社員には後に田崎真珠を創業する田崎俊作がいる。鄭旺は「真珠王」とも呼ばれ、戦後には故郷・台南への投資を積極的に進め、1963年には台南駅前に「台南大飯店」を開業している。同年には中華民国留日神戸華僑総会の第4代会長にも就任する。第2代、第3代と同会の会長はかつての帽子商人であった。それが真珠商人にバトンタッチしたことは、いかに当時の神戸の台湾人コミュニティのなかで真珠商人が隆盛を誇っていたかを物語っている。もちろん神戸の真珠業は台湾人のみで成り立っているものではない。そこには日本人もいればインド人もいる。かれらは互いに顔見知りで、共通語は神戸アクセントの関西弁である。
この文章を書いている私は神戸で生まれ育った「日台ハーフ」である。父は1979年に留学生として台南より来神した。神戸には戦後まもなくから父方の親族が暮らし、その多くが真珠業を営む。私が子どものころの1990年代、神戸の台湾出身の親族の家に行くと、真珠で作られた船の置物があったことを思い出す。1990年代から2000年代は私の大叔父も健在であった。神戸にいながらにして台湾語だけが飛び交っていたのを思い出す。戦前あるいは戦後初期に男性一人、単身で神戸に渡ってきた台湾人も今やほとんど鬼籍に入ってしまった。1950-60年代、そうした神戸の台湾人男性は台湾にいる家族を呼び寄せたり、嫁を迎えたりした。そのため、この時代に神戸に渡ってきた台湾人女性や10代そこそこで神戸に来たという人も多い。自分の親族にもこれに当てはまる人たちがいる。かれらは台湾語を話し、日本語は「カタコト」である。台湾訛りのカタコトの日本語は自分にとって子どものころから慣れ親しんだ言葉の一つだ。