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三池炭鉱と宮崎兄弟資料館見学会

2月18日(土)・19日(日)特別企画

 

熊本県北部に位置する荒尾は、孫文の盟友であった宮崎滔天の生家のある場所として、また明治日本の産業革命遺産である三池炭鉱があった場所として、本学会の会員にとって現地で学ぶことが多い場所の一つである。今回の特別企画は、熊本日日新聞の原大祐氏ほか、宮崎兄弟資料館、法雲山金剛寺のご協力により実現することができた。見学会ではご協力いただいた方々と参加者の間でさまざまなトピックに関するディスカッションが交わされ、かけがえのない学びの機会となった。筆者にとっての学びは、この地の過去の人々の経験が地層のように重なることで、その都度の新たな歴史が生み出されてきたということである。見学会二日目、参加者一行は、金剛寺の赤星善生住職のご案内で小岱山正法寺の中国人殉難者慰霊之碑と不二之塔を訪れた。この二つの記念碑は、1960年代、金剛寺の故・赤星善弘住職が正法寺の再建の前にすべきことがあるとして、賛同者とともに北部九州各地を托鉢し、3年かけて集めた浄財によって建てられた三池炭鉱殉難者の慰霊碑である。地元華僑ではニコニコ堂が多額の寄付を寄せている。当時は、冷戦のただなかで、また荒尾が三池炭鉱の城下町であったこともあって、周囲は必ずしも協力的ではなかった。そうしたなか、熊本には御詠歌を学びたいという地区ごとのグループが多くあり、住職はそこに出向いていっては御詠歌を人びとに教え、浄財を募ったという。その頃、九州では、御詠歌や和讃が流行しており、国家や企業の論理を越えて人びとは協力した。金剛寺の御詠歌は「岱山の峰にかかりし法の雲 照らすは金剛慈悲の御光」である。

 

冷戦は、宮崎滔天の顕彰にも影響している。孫文を支援した滔天であるが、戦後は中華人民共和国の側から評価されることが多い。植木学校、神風連の乱、西南戦争といったこの地の集合的な経験による地層の重なりに立ち、滔天は兄・八郎の意思を継いで自由民権運動を志す。孫文やエミリオ・アギナルド、マリアノ・ポンセの革命に対する支援も、この上に立つものである。滔天が人びとに自由民権運動や革命を語る言語としたのは浪花節である。60年代にこの地域で御詠歌や和讃が流行っていたように、宮崎滔天の時代、北部九州では祭文や浪花節が流行っていた。滔天は浪曲師桃中軒雲右衛門に弟子入りし、浪花節の節と啖呵で人びとに自由民権と革命を語った。浪花節にしても、御詠歌、和讃にしても、その語り口そのもの自体が地層に支えられているのかも知れない。三池炭鉱殉難者慰霊碑の建立を滔天が浪花節の言葉で語ったとしたらどのように語っただろうか。そのようなことを想像してみた。